旧石器時代
火山灰の中の石器
私たちが生活している地面の下、50cmくらいには関東ローム層と呼ばれる今から1万年以上前、火山噴火により降り積もった火山灰層があります。この層の中から旧石器時代の人が過ごした痕跡(石器)が発見できます。現在わが国では、約4万年前までの遺跡が確認されていますが野木町では、野木Ⅲ遺跡(野木)から約16,000年前の道具(石器)が見つかっています。
旧石器(野木Ⅲ遺跡)
私たちが生活している地面の下、50cmくらいには関東ローム層と呼ばれる今から1万年以上前、火山噴火により降り積もった火山灰層があります。この層の中から旧石器時代の人が過ごした痕跡(石器)が発見できます。現在わが国では、約4万年前までの遺跡が確認されていますが野木町では、野木Ⅲ遺跡(野木)から約16,000年前の道具(石器)が見つかっています。
旧石器(野木Ⅲ遺跡)
紀元前1万年~300年
清六Ⅲ遺跡(野木)では、約12,000年前の石器が発見されています。また、約6,500年前には、野木町の近くまで東京湾の海水が入ってきており、野渡地区で発見された貝塚からは、シジミやカキの貝がらも見つかっています。縄文時代中期は、文化が発達した時代で、人口も増え大きな集落が営まれました。用途に応じた土器が作られ、松原北遺跡(友沼)では、大規模な集落跡が確認されています。
縄文土器(松原北遺跡)
紀元前3~3世紀
縄文時代の終わり、紀元前2~3世紀頃北九州地方に伝えられた米作りの方法は、瀬戸内海を経て近畿地方に広まり、その後栃木県にも伝えられました。栃木県の弥生文化については、不明な点がたくさんあります。縄文時代の風習を残しながら稲作が始まったようですが、当時の様子を残す遺跡の発見は少なく、水田の跡なども発見されていません。清六Ⅲ遺跡(野木)からは、弥生時代中期(紀元前後)とされる再葬墓(さいそうぼ)といわれる墓の中に、骨壺として使われた弥生土器が十数個発見されています。
1世紀頃の弥生土器(清六Ⅲ遺跡)
4世紀~6世紀
全国各地に古墳が作られた時代です。野木神社周辺の古墳から「画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)」が発見され、古墳時代前期(4世紀)から古墳が作られたことが分かります。中期(5世紀)の遺跡は未確認ですが、下毛野国造(古代の地方長官)の奈良別(ならわけ)が笠懸野台手箱(野木町煉瓦窯付近)に祠(野木神社のはじまり)を建てたとの言い伝えがあります。
後期(6世紀)には、杏林製薬工場内遺跡(野木)に大規模な集落が、また南赤塚地区には大塚古墳(方墳・県指定史跡)が造営されています。
大塚古墳
7世紀~10世紀
645年の大化の改新後、地方は国、郡、郷、里という行政単位に分けられ、大宝元(701)年の大宝律令制定後、全国の大半が律令制下に繰り込まれました。平安時代の初期に編さんされた『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』(わが国初の百科事典)に寒川郡奴宜(野木の古い地名)郷との記載があり、野木域は律令制下の行政単位として成立したことが分かります。松原北遺跡(友沼)では9世紀を中心とする集落跡や、「寒」と墨書された土器片、当時の役人の正装に使われた帯金具(丸鞆)が発見されています。
9世紀の墨書「寒」土器(松原北遺跡)
野木町は西側に雄大な渡良瀬遊水地があり、その中を思川・渡良瀬川・巴波川などの河川が流れ、原始古代から変わらない湿地景観です。東側高台(洪積台地)の上に町の中心街が広がっており、遠く富士山や日光連山を望むことができ、原始古代から多くの人々の行き交う地でした。遊水地を見下ろす台地上には、旧石器時代から古墳時代までの多数の遺跡があり、栃木県内でも有数の遺跡集中地区です。古代には寒川郡の一郷として村々が点在。鎌倉時代には奥の大道(鎌倉時代の幹線道路)と思われる古道がありました。近世には日光街道の宿駅など、各時代を通じて交通の要衝でした。現代も野木町は主要幹線道路、鉄道路線の道筋となっており、栃木県の南の玄関口として大きな役割を果たしています。
野渡橋から望む思川と渡良瀬川の合流