野木町の近代

明治時代

古河県から栃木県へ

慶応3(1867)年、15代将軍徳川慶喜は征夷大将軍の職を辞め、政権を朝廷に返上しました(大政奉還)。その年に王政復古の大号令が発せられ、新政府の樹立が宣言されました。しかし旧幕府側と新政府側との争いは続き、野木地域を含む古河藩領内も影響を受けました。

明治2(1869)年に古河藩は古河県となり、野木地域は明治5(1872)年に古河県から栃木県へと移りました。様々な制度が新しくなる中、明治6(1873)年に政府が行った全国の土地を再点検した上で土地の価格を決め、その価格から毎年納める税金を決めた改革(地租改正)は、野木地域にも大きな影響を与えました。

その後、町村制という法律が明治21(1888)年に公布され、野木地域の10の村が合併し、現在の野木町のもととなる「下都賀郡野木村」が誕生し、最初の役場は法音寺境内に置かれました。それまでの村々の名前は、現在でも大字名として残されています。

法音寺

明治時代

交通の整備 ~道路・河川・鉄道~

明治時代に入り、日光道中は陸羽街道として全国の主要な道路に位置付けられました。陸羽街道の本格的な改修は明治17(1884)年にはじまり、わずか5カ月で栃木県内を南北に貫く国道が整備されました。

河川の交通は、明治に入っても友沼河岸は物資の輸送に利用されていましたが、明治10(1877)年に思川の生井河岸(小山市)と東京間を結ぶ蒸気船「通運丸」が就航します。徒歩よりも早く、また馬車よりも安い運賃ということで利用客が多かったそうです。しかし、明治18(1885)年の東北本線開通のため、蒸気船よりも早い鉄道へ利用客が奪われ、江戸時代からの河岸による水運も急速に衰えていきました。

その鉄道ですが、明治18(1885)年に東北本線大宮−宇都宮間が開業しました。開業当時、野木地域には駅がなく、最寄り駅は古河駅でしたが、昭和38(1963)年に野木駅が設置されました。

蒸気船「通運丸」(「野木町史」より転載)

明治時代

下野煉化製造会社の創業

野木町は渡良瀬川と思川が合流する地域にあり、隣の旧谷中村(現在は渡良瀬遊水地)は良質な粘土や川砂が採れ、赤煉瓦づくりに適した場所でした。また、つくった赤煉瓦は河川を利用して船で運びました。赤煉瓦づくりに恵まれた環境に着目し、明治21(1888)年1月、下宮村(後に合併し谷中村となる)に東輝煉化石製造所が設立されました。そして、同年10月には、下野煉化製造会社が現在の野木町煉瓦窯の場所に設立されました。

赤煉瓦の製造は、明治22(1889)年からはじまりました。当時赤煉瓦は、ドイツ人技師のフリードリッヒ・ホフマンが改良し特許を得た煉瓦専用の連続焼成窯「ホフマン式輪窯」2基と登り窯1基でつくられていました。現在残っているのは明治23(1890)年に完成した東窯だけで、西窯と登り窯は大正12(1923)年の関東大震災で倒壊してしまいました。

昭和8年頃の煉瓦工場外観(野木小学校蔵)

明治時代

下野煉化製造会社と野木

明治22(1889)年から製造された下野煉化製造会社の赤煉瓦。この地で赤煉瓦がつくられた背景には、欧米を見本とした近代建築が増え、関東各地では鉄道や水道施設にも多く利用され、建築用の赤煉瓦が大量に必要となりました。また、赤煉瓦の出荷には、舟運と鉄道が併用されていましたが、古河駅まで馬車で運び、鉄道輸送により早く東京方面に出荷できるようになったため、鉄道輸送に切り替わっていきます。その後もこの地では赤煉瓦をつくり続けましたが、関東大震災以後、建材に赤煉瓦が使われなくなってきたため、昭和46(1971)年に製造を中止しました。ここでつくられた赤煉瓦は、古河第一小学校旧正門(茨城県古河市)や野渡地区の新井家ふるさと記念館(旧新井製糸所)などで見ることができます。

旧下野煉化製造会社煉瓦窯

きらり館の煉瓦倉(野木町)

江州屋煉瓦煙突(佐野市)

古河第一小学校旧正門(古河市)

所野第一水力発電所(日光市)

渡良瀬遊水地と谷中村

野木町の西にある渡良瀬遊水地は、栃木・群馬・埼玉・茨城の4県にまたがる日本最大の遊水地です。遊水地ができるきっかけとなったのは、渡良瀬川の大洪水と上流の足尾銅山から流れ出た鉱毒による被害でした。そのため栃木県は、渡良瀬川の改修と谷中村を含む下流部の遊水地化計画を立て、県議会で認められます。しかし、政治家の田中正造や谷中村住民らはこの決定に反対・抵抗しますが、明治39(1906)年に谷中村は藤岡町と合併、廃村となりました。その前年、谷中村住民(主に恵下野地区)は野木村に移住しました。明治43(1910)年から国による改修事業がはじまり、昭和5(1930)年に渡良瀬遊水地は完成しました。

渡良瀬遊水地

殖産興業と野木

明治以降、政府は産業や経済での欧米諸国との差を少しでも縮めようと国家の近代化を推し進めました。これを「殖産興業」といい、官営(政府経営)の模範工場や鉄道、鉱山などの事業を政府が中心となって進めました。当然ながら、野木地域にも殖産興業の波が押し寄せてきました。そのひとつが製糸業です。当時の日本の重要な輸出品のひとつだった生糸は、蚕の繭が原料です。野木地域では蚕を育てる農家が多く、また蚕の繭から生糸をとるための製糸所が2つあり(新井製糸所と川田製糸所)、殖産興業を支えていました。

新井製糸所(新井家ふるさと記念館提供)

煉瓦がができるまで

煉瓦はこうやってつくられていました。

1.原料採取

煉瓦製造画譜:土取場
(北海道立博物館提供)

粘土は旧谷中村、川砂は主に思川から船で運びました。

2.素地製造

同画譜:源土船場
(混合土練)

同画譜:型抜場
(手抜き素地製造)

ホフマン窯ができてからは、機械による素地製造が行われるようになりました。

3.乾燥

同画譜:干場
(素地天日乾燥)

屋内で20~25日、屋外で約1週間乾燥させました。

4.焼成

下図を参照して下さい。

5.出荷

出荷を待つ煉瓦
(新井家ふるさと記念館提供)

輸送法は、船→鉄道→トラックと変化しました。

近代の年表

明治時代
明治2年(1869)
野木町域が古河県に属する
明治5年(1872)
野木町域が古河県から栃木県に移管される
明治14年(1881)
野渡村に製糸業古河同士社が設立される
明治17年(1884)
陸羽街道の本格的な改修により、栃木県内を南北に貫く国道が整備される
明治18年(1885)
東北本線大宮-宇都宮間が開業
明治21年(1888)
下野煉化製造会社が設立される
明治22年(1889)
町村制施行により、野木村ほか10ケ村が合併し下都賀郡野木村となる
下野煉化製造会社にホフマン式輪窯1基(西窯)が完成
明治23年(1890)
下野煉化製造会社にホフマン式輪窯1基(東窯)が完成
明治32年(1899)
野渡地区の新井製糸所で機械導入を図り、本格的な製糸工場となる
明治33年(1900)
野木村野木に川田製糸所が設立される
明治43年(1910)
国による渡良瀬川の改修がはじまる
大正時代
大正12年(1923)
関東大震災により煉瓦建造物の多くが倒壊。以後需要が激減する
昭和時代
昭和46年(1971)
(株)シモレン(旧下野煉化製造会社)での赤煉瓦製造が終わる
昭和54年(1979)
旧下野煉化製造会社煉瓦窯(東窯)が国の重要文化財に指定される

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