野木町の中世

平安時代・後期

野木宮の創立と由来

野木宮(現在の野木神社)は今から約1,600年前、下毛野地域(栃木県南西部)を治めるため中央からやってきた奈良別という人物が、仁徳天皇の弟・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の霊を山城国(京都府中・南部)から笠懸野台手箱(野木町煉瓦窯付近)へ移し祠を建てて祀ったのがはじまりと伝えられています。その後、延暦年間(782〜806)には、坂上田村麻呂が蝦夷との戦いに向かう途中、野木宮に祈ったおかげで勝つことができ、そのお礼に祠を現在の場所へ祀ったとも伝えられています。

そして鎌倉幕府を開いた源頼朝は、寿永2(1183)年の野木宮合戦で勝利した後に野木を含む下野国寒川郡を神社の領地として寄進しました。また戦勝を祝い、神馬を捧げました。江戸時代になると、神社は古河藩のお殿様から大切に守られました。現在の建物は、文政4(1821)年に古河藩のお殿様たちによって建て直されました。

野木神社

平安時代・末期

源頼朝の挙兵と野木宮合戦

治承4(1180)年、源頼朝は伊豆国(静岡県東部)で平氏を倒すべく立ち上がり、その後相模国(神奈川県)鎌倉で活動していました。そんな中、頼朝の叔父で常陸国信太荘(茨城県稲敷市)を治めていた志田義広(しだよしひろ)が頼朝と対立。義広は多くの軍勢を率いて、頼朝がいる鎌倉に向かうと見せかけて下野南部へと向かいました。

当時、野木地域を含む下野南部を治めていた小山朝政(おやまともまさ)は、弟たちが頼朝の家臣だったこともあり頼朝に味方します。朝政は義広からの誘いに対して味方になるといつわり、義広が小山氏の住まいへ来る途中の野木宮近くで待ち伏せて戦う作戦に出ます。寿永2(1183)年2月、義広の軍勢との激しい戦いの末、多くの味方をつけた朝政=頼朝方が勝ちました(野木宮合戦)。この勝利によって、頼朝の北関東での敵はいなくなり、一族の源(木曾)義仲や平氏を倒して鎌倉幕府の基礎を築いていくこととなりました。

小山朝政画像(秋元孝春氏提供)

平安〜戦国時代

野木を治めていた小山氏

平安末期から南北朝時代にかけての約200年間、小山氏が野木を治めていました。当時の小山氏は都賀郡小山郷(小山市)を本拠地に、下野国の最高実力者として重要な職に就いていました。野木宮合戦では源頼朝方の勝利に貢献。鎌倉時代には、北関東一の有力な御家人(幕府の家臣)として大きな影響力を持ちました。

南北朝時代の康暦2(1380)年、鎌倉公方足利氏満が軍勢を率いて小山義政を攻め、野木を含む小山地域に大きな影響を与えました(小山義政の乱)。小山氏が滅ぼされた後、一族の結城氏によって小山氏の名が受け継がれました。当時の野木は古河公方(将軍の別名)の足利氏が治めていましたが、戦国時代末期には北条氏に従っていた小山氏が再び治めました。やがて豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされると、小山氏は没落。野木地域は、徳川家康の次男で結城氏の養子となった結城秀康が治めることとなりました。

小山市鷲城跡(小山市教育委員会提供)

野木神社の「七郷巡り」

「七郷巡り(ななごうめぐり)」は、源頼朝が寄付した神社の7つの領地(現在の小山市南西部の寒川地区)を宮司などが御神霊を持って巡る行事で、今から約800年前にはじまったと伝えられています。12月3日の夜に行われる「提灯もみ」というお祭りは、この「七郷巡り」が起源です。

板碑 中世の供養碑

中世の人々の信仰を反映するものとして重要なのは「板碑」といわれる供養碑です。野木町では166基確認されています。正元元(1259)年銘板碑(満福寺蔵)や文明3(1471)年銘十三仏板碑など貴重なものが見つかっています。

中央が十三仏板碑(岩﨑裕子氏所有)

中世の年表

平安時代後期
12世紀中頃
小山氏が現在の小山市と野木町付近を治める
寿永2年(1183)
小山朝政らが常陸国の志田義広と野木宮(野木神社)で戦い、志田義広を敗る(野木宮合戦)
鎌倉時代
文治元年(1185)
源頼朝、野木宮合戦勝利の後に下野国寒河郡を神社の領地として寄進
建仁年間(1201~04)
野木神社の「七郷巡り」がはじまったとされる
南北朝時代
康暦2年(1380)
鎌倉公方足利氏満が軍勢を率いて小山義政を攻め、義政は自害する(~1382年:小山義政の乱)
室町時代
応永年間(1394~1428)
結城基光、次男泰朝に小山氏の名跡を継がせる
戦国時代
天正3年(1575)
小山秀綱、北条氏の攻撃を受け祇園城(小山市)を明け渡す(後に北条氏の統制の下、再び祇園城へ戻る)
天正18年(1590)
徳川家康の次男の結城秀康が旧小山領野木地域を治める

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