野木町の近世

江戸時代

古河藩領下の野木

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いに勝ち、全国の支配権を手に入れた徳川家康は、慶長8(1603)年に朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。この頃の野木地域を含む小山領は、家康の家臣だった本多正純が治めていました。その後、正純は宇都宮へ国替えとなりましたが、この時に小山領は古河藩領に組み入れられました。

古河藩領となった野木地域には、五街道のひとつである日光道中の宿場(野木宿)や川を利用して物資の輸送が行われるなど、多くの人でにぎわっていました。一方、宿場の東側には畑や御林(幕府や藩が管理する山林)が広がっていました。畑では主に大豆や小豆、荏胡麻(えごま)などをつくる一方、そばや大根などの野菜を栽培し、農家はそれらを野木宿や古河城下などで売って現金収入を得ていました。野木地域は交通にとって重要な場所であり、農村もその影響を受けながら、生活していたと言えるでしょう。

古河城二の丸から三階櫓(「古河市郷土写真集」より)

江戸時代

日光道中野木宿と友沼河岸の成立

江戸時代の野木地域には、陸・川の交通にとって重要な場所がありました。ひとつは日光道中野木宿で、慶長7(1602)年に成立しました。野木宿は江戸日本橋から数えて10番目の宿場で、本野木と新野木から成っていました。両野木には「問屋場(といやば)」という施設がそれぞれ2カ所ずつ置かれ、1カ月交替で運営していました。ここでは、幕府の役人や大名などが宿場を利用する際に必要な馬や人を用意し、荷物を次の宿場まで運ぶ業務(継立)と幕府の重要な文書や品物を次の宿場へ届ける業務(継飛脚)を行っていました。

もうひとつは、物資の輸送のため思川につくられた友沼河岸です。元々は隣の乙女河岸の一部として物資の揚げ降ろしを行っていました。河岸からは主に年貢米を江戸へ運び、江戸からは肥料や食料品などが運ばれていました。友沼河岸が乙女河岸から独立したのは、宝暦年間(1751〜64)の頃と考えられています。

友沼河岸(「野木町史」より転載)

江戸時代

日光社参と野木

江戸時代最大のイベント、それは徳川将軍家による日光社参でした。日光社参とは、徳川将軍家が徳川家康の命日に家康が祀られている日光東照宮を参拝する行事のことです。2代将軍秀忠から12代将軍家慶まで19回行われました(17回とする説もあります)。

社参では、時の将軍をはじめ、お供をする大名や将軍家の家臣などが大行列をなして日光道中を歩きました。12代将軍家慶の時、天保14(1843)年には、重臣60余名と多数の従者を率いて行われています。

野木地域では、江戸出発から3日目の最初の休憩地として友沼八幡神社が利用されました。この神社はもともと小さな祠だったのですが、寛永9(1632)年の3代将軍家光による日光社参で社殿を備えた大きな神社になったそうです。境内には「運西庵(うんせいあん)」という将軍専用の休憩所が建てられました。正面には遠く筑波山を望むことができ、当時もその眺めを楽しんだことでしょう。

友沼八幡神社

五街道

江戸幕府を開いた徳川家康は、全国支配の足がかりとして交通網の整備を行いました。中でも、江戸を出発点とする五街道の整備に力を入れました。五街道とは、東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中のことをいいました。五街道では、旅人を泊め、荷物を運ぶための人や馬を集め、そして重要な文書を運ぶ「飛脚」を置いた街道沿いの集落である「宿駅宿場」を定め、また幕府の命令などを伝える人や物資を馬で運ぶ「伝馬(でんま)」を使うなど、幕府にとって地域をつなぐ重要な役割を果たしていました。

旧野木宿道標

近世の年表

安土・桃山時代
慶長5年(1600)
徳川家康が小山に到着。諸将を集め軍議する(小山評定)
江戸時代
慶長7年(1602)
日光道中野木宿が成立
慶長8年(1603)
徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開く
元和2年(1616)
野木宿内に寺院がないため、宿内に野木神社を管理する満願寺を建立
元和3年(1617)
徳川秀忠が日光に祀った父・家康を参詣(日光社参のはじまり)
元和5年(1619)
野木地域が小山領から古河藩領となる
元和6年(1620)
奥州街道筋「中田~野木~小山間」に松を植える
寛永13年(1636)
友沼八幡神社が徳川家光の日光社参の休憩所として整備される。この頃、日光道中が完成する
宝暦年間(1751~64)
乙女河岸の一部だった友沼河岸が独立
文化3年(1806)
野木神社が火事で焼失
文政4年(1821)
野木神社が古河藩主・土井利厚によって再建される
天保14年(1843)
将軍家慶が日光社参の折、友沼八幡神社にて小休止
慶応3年(1867)
王政復古の大号令を発す

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